本を読むということ
私は小さい頃、本ばかり読んでいて、頭でっかちな子供だったように思う。知識だけ貪るように吸収して、世界のいろいろなことを分かっていると過信していた。
少し大きくなって、実際に自分の身を以て経験したとき、ああ、あの本に書いてあった文章は、こう表現されていた感情は、こういうことだったのか、と実感した。たとえば、身を焦がすような、という気持ちであったり。私は、本当は、何も知らなかったのだと。
文章を読んで想像する、人の話を聞いて思いを巡らせる、というのはけして無駄なことではなくて、でも、似たような状況に出会った時に、自分が実際にどう行動して、どう感じるかということには、小さくはない「ずれ」があるのだと気がついた時、私は少し変わったのだと思う。
その時、私は、本の知識だけで、手や身体を動かさずに判った気になることの危うさに気づいた。実体験を伴わない知識は、経験して身につけたこととは、まるで違う。だから興味があることは想像だけで済ませた気にならず、実際に経験できることは体験してみよう、と思った。
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図鑑で見て知っていると思った生物も、実物を見て触るとまた全然違う印象を持ったりする。前もって得ていた知識と、実体験のずれ、それもまた面白かったりする。思っていたのと違う、うまくいかないという歯痒さを味わうのも面白さだったりする。
・・・の方法、とか、作り方、という本を読みながら何かを作っても、途中でどうしていいか分からなくなって行間にある何かを考えたり、人に聞いたり、違う書物を調べたりすることもあり、最後に本にあるものとは、まったく違うものができあがったりする場合も少なくない。
素敵な踊りを見て、真似て身体を動かしてみたら、フリもままならないし、ポーズもサマにならない、鏡の中の自分を見て、あまりの違いに愕然としたりする。
やったことがないのにすんなり出来る気がしていた自分に苦笑したり、思っていた以上のものができて嬉しくなったり。自分で実際にやってみるっていうのは、そういうことなんだと思った。
人の体験談を聞くことは無駄ではないけれど、同じ空間で同じ出来事を経験したとしても、それぞれの人に生じる感情は違うし、行動も違ってくる。自分でやってみて、受け取ったことは、その人特有の経験。その人独自のもの。
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子供の頃、私ではない人から、どう世界は見えていて、どのように感じているのかを疑似体験できる眼鏡がほしいって思っていた。
私にとって、その眼鏡は、人の話を聞いたり、本を読むってことなのかもしれないな、って、思っていたりする。
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