忘れられない男
私が、今まで生きてきた中で、
一番魅かれた人を一人あげるなら
それはもう、間違いなくフジモトさん(仮名)だ。
フジモトさんは、大学の同じ学科の先輩で、
私が入学した時は、すでに留年2回目だったのかな?
フジモトさんはとても私の好みの声を持っている
音楽的センスの良い、合唱部員だった。
私は、高校時代の合唱部の人間関係で疲れ果てていたので
大学では、合唱部には入るまい、と心に決めていた。
そこで、私は違うアカペラサークルに入ったのだが、
大学の合唱部の人達とも気が合ったので、
ときどき歌いに行ったりもしていた。いわゆる幽霊部員。
フジモトさんも、私のアカペラサークルを面白がって
ときどき歌いに来たりした。
すごく好きだったなぁ、フジモトさんと歌うの。
*****
サークルで会うとき以外は、
ほとんどシラフで話していた記憶がない。
当時は、ポケベルを持っている子もいたけど
携帯電話なんてものは無かったので、
基本的に家の電話で呼び出されるか、
ばったり学内で会った時に、今日夕方飲まん?って誘われるか
仲間内で飲んでるときに、いつのまにか、
誰かが呼び出したり、呼び出されたり。
行きつけのジャズバーは、彼のアパートの割と近くにあったので
お酒を飲んでは、会いたくなって公衆電話で呼び出してみたり、
帰りがけに、うろうろ通りかかってみたり。
まあ、タイミングが合わなくて、会えないことも多かったけど。
仲間と飲んでるうちに、まあ、家で二人でのんびり飲もうや
と言う話になって、抜け出して、お互いのアパートでだらだら
朝まで飲んでることは、よくあった。
男女二人で飲んでて、何もないってことは、もちろんなく。
古くかわいらしい言葉で言えば、友達以上、恋人未満って関係だった。
まあ、ただ、お互いに気に入っている飲み仲間ってやつだったかも。
周りからみたら、私は、あきらかにフジモトさんの女、
に見えていたような気はするけど。
ああ、そうだ、フジモトさんは、私の脚がきれいで好きだと
よく褒めてくれたっけ。
*****
フジモトさんとは、付き合おうと言われたこともないし
付き合って、と言ってみたこともない。
だって、いつも他の女の影が見え隠れするんだよね。
そんな相手に本気になったら、逃げられるだけ、
と、思っていた。
まったく、飲んだくれの、声のいい、たぶん女にだらしない
ろくでもない男だった。
私にも、ちょくちょく男がいたりしたので、まあ、人のことは言えない。
ときどき、すごく踏み込んで捕まえてみたい、と思ったことは
あったけれど、その度に、フジモトさんはするりとかわして
しばらく会えなくなった。
それは、フジモトさんが、計算でやってたのか
たまたまタイミングがそうだったのか、今でも分からないけど。
この会いたくても、次はいつ会えるか分からないってとこも
私を強く惹きつける一因になっていた。
*****
フジモトさんの留年仲間が、飲みながら教えてくれた。
私と会う前のフジモトさんは、すごく真面目で
大切に付き合ってる彼女がいたのだと。
そして、彼女は妊娠してしまい、中絶。
彼女の親は激怒し、実家に連れ帰ってしまった。
中絶費用を払うため、バイトを増やし、そのあげく留年。
留年分の学費を払うため、バイトしてたら、また留年。
飲んでるうちに、留年。
フジモトさんは、とても彼女のことを大切にしていた。
彼女がいなくなってから、女に本気で惚れている姿を
見たことはない、と。
私は、いろいろ納得して、私に本気で惚れてくれればいいのに
って思う気持ちを口に出すのは、やめることにした。
だって、逃げられるくらいなら、気楽なお気に入りの飲み仲間で、
たまに、となりに置いて、かわいがってくれる方が、
よかったから。
じっさい、私に付き合っている人がいるときの方が
飲みに誘われることが多かったので、
ホント、お互い、都合のいい相手だったんだろうな。
私は、呼び出すと、必ず出てくる、本気にならない飲み相手。
ちゃんとしたキスなんて、ほとんどした覚えがない。
*****
私が大学在学中、フジモトさんに彼女がいるって話は
結局、聞いたことがなかった。
そして、私が4年で大学を卒業するとき、フジモトさんは8年目で
あと一単位をとれば卒業できるのに、その試験をブッチした。
で、結局、中退扱い。
まったく、もう。
くれっていうから、過去問題を手に入れて、解答を作って
持って行ってやったっていうのに。
*****
私は、大学を卒業して、遠くに就職してからも、
ちょくちょく、フジモトさんの夢を見た。
呼び出されて、二人でだらだら飲んで、
抱かれて、すごく嬉しくなってしまう夢。
目が覚めると、あーあ、また見ちゃったよって
切ない気持ちになる。
これは、気持ちをぶつけてみなかったから、なんだろうなぁ、と。
*****
卒業したあと、数年経って、
大学の合唱部の記念演奏会に歌いに行った。
目的は、切ない夢と、決着をつけるため。
そして、ただ、フジモトさんに会ってみたかった。
フジモトさんには、公認の彼女ができていた。
丸顔で、すごく素直そうな、可愛らしい平凡な女の子。
ああ、ちゃんと、女と向き合う気になったのね。
と、しみじみ感慨深い気持ちになった。
そして演奏会の後の打ち上げで飲み、その後、私たちは
こっそり二人で抜け出し、やはり朝までだらだら飲んだ。
私たち、付き合ってたって言えるのかなー?
付き合ってたんじゃないの?
私のこと、気に入ってたでしょ?好きだった?
うん、好きだったよ。
そんな、マヌケな会話を交わし、
まあ、酒の雰囲気に飲まれた社交辞令だったのかもしれないけど
そんな言葉をもらって、私は、気が済んだのだ。
そして、朝になって、フジモトさんの携帯に彼女からの留守電と、
着信がたくさん入ってたって話を聞いて、私はかなり満足した。
この後、言い訳大変ね、がんばってねー、なんて笑った。
まったくヒドイ話。
*****
それきり、フジモトさんの夢は、あまり見なくて済むようになった。
たまーにみて、あちゃーって思っちゃうけど、
落ち込むことはなくなり、ちょっと甘い気持ちになる。
でも最近は、夢、すっかり見なくなったな。
OB会からの情報を見ると、今でも彼は大学近くにいて、歌い続けている。
そして、まだ、結婚はしていないらしい。
もう、私が会いたいと思わなければ、一生会うことのない人だけど
会えない相手ではなかったりする。
会ったら、きっとまた、うっかりだらだら朝まで飲んでしまう。
まあ、もういいんです。済んだ話。
済んだ話だけど。
やっぱり今でも、心のどこかで魅かれている気持ちは残っている。
つかみどころのない、飲んだくれの、女にだらしない
とてもいい声を持つ、私の心をときどき強く捕まえた、
心の片隅で今でも好きな、いいかげんな男。
|