知りたい、という気持ちがあれば、それだけでいい
その人と仲良くなりたかったらその人をまるごとそのまま見たらいい。知りたいという気持ちがあれば、それだけでいい。知りたいと思う気持ちは、好意だ。好意がもてないのに適当に「解決策を提示」し「教え諭して」やろうと思うのは単にその人を踏み台にして優越感をもちたいだけだ by 理系兼業主婦
— Copy writing (@Copy__writing) 2015, 1月 26
こんなツイートが流れてきた。
「by 理系兼業主婦」ということは、この言葉はツイート主が紡いだ言葉ではない。もとになるブログ記事があるはず。
と思って、文章の一部で検索をかけてみた。すると、2011年あたりにTumblrで、たくさんリブログされている「 男脳(笑)信仰のふしぎ – 理系兼業主婦日記」という記事だということが分かった。けれど、そのはてなブログの記事は削除されていて、ブログのタイトルも変わってしまっている。
記事を消すような何かがあったのかな、と思って、今度は、記事タイトルで検索をかけてみる。と、見つかった「科学と生活のイーハトーヴ」というブログ。どうやら、自分のドメインでブログを作って、コメントごと記事を移転したみたい。
”その人と仲良くなりたかったら、その人をまるごとそのまま見たらいい。
何考えてるのかわからなかったら、何を考えているんだろう?って見て、聞いたらいい。
その人のことを知りたい、という気持ちがあれば、それだけでいい。
知りたいと思う気持ちは、好意であり、愛だ。
その人に対して好意がもてないのに、適当に「解決策を提示」して「教え諭して」やろうと思うのは、単にその人を踏み台にして自分が優越感をもちたいだけだ。”
男脳(笑)信仰のふしぎ〜科学と生活のイーハトーヴより
記事全文を読むと、ツイートから受けた印象とは、ちょっと変わってくる。いわゆる男脳と女脳の違いという一般論はさておき、相手が男でも女でも、相手の話をきちんと聞いて、情報を共有してから、解決策を考えようという話。話の入口だけ聞いて、すぐに答えを出して「あげよう」とするな、というのが記事の主旨であるように思う。
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私は、二人の男児を育てていて、よく感じるのは、二人とも自分の話を聞いてほしいって思っていて、そこにあるのは、自分の状況や気持ちを知って理解してほしいという気持ちで、共感しなくても、話したことをきちんと聞いて、分かってもらえた、というだけである程度すっきりして満たされる、ということだ。
友達と何かうまくいかなかった時、そっか、嫌な気持ちだったねー、とまず受け止める。こういうことがあって、あなたは、こういう気持ちだったのね、と整理して伝える。それで、だいたいおしまい。
場合によっては、相手はこういう気持ちだったかもしれないし、こういう気持ちだったかもしれないけど、分からないね、人の気持ちはその人じゃないと、と物事の捉え方は一つじゃないし、人によって見えているものは違っているということを追加して伝えたりする。けど蛇足だったかも、と反省することも多い。
日常に起こる対人関係のことなんて、解決するものじゃないし、親が横から解決してあげるようなことではないし、曖昧なまま、気持ちに折り合いをつけて過ごしていくしかないだろう、と思う。気持ちに折り合いをつけられるかどうかなんて、本人の問題だもの。仲が悪かったお友達と、がんばってみたら打ち解けて仲良くできるようになりました、めでたしめでたし、なんてことは、あまりおこらない。何かをきっかけにして、急に仲良くなったり、仲が悪くなったり、そんなものだ。
私は女児を育てていないので分からないけれど、男児であれ、解決策を聞きたいのではなく、まず、状況や心情を分かってほしいと思っているのは確かだと思う。母が共感するしないよりも、母が自分のことを理解したかどうか、で満足感を得ているような気がする。人から解決策をもらうより、自分でこうしようと考えて見つけた解を試してみるといいよね。うまくいっても、いかなくても。
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話は引用部分に戻るけれど、相手に好意を持っていないのに、相手と付き合うと、自分の優位性が確認できるから関係を続ける、という人付き合いは、私はしたくないと思う。
相手が好きで、相手の役に立ちたいと思うことがあっても、相手が自分自身で解決できるし、口を出すことが自己満足でしかない、と思うときは、じっと我慢の子で見守ってみたりする。
”相手をバカにしつつ、それでもつきあおうって、なんかねじれているような気がするんです。”
という記事の主であるpollyannaさんの言葉が、コメント欄にある。
優越感を満たすためじゃなく、損得じゃなく、相手が好きだからお付き合いする、そういう素直な人間関係を紡いでいきたいと、私は思う。
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2008年の記事が、リブログされ、Tweetされ、RTされ、ブログを移転してもネットを漂い、2015年の私にまでたどり着いたことに、感慨深いなぁ、としみじみ思う。元の記事が消えていなくて、ちゃんとたどり着けて、よかった。
この知りたいと思う気持ちも、また、好意であり、愛なのだろう、とか、思ったり。
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