音と紅茶の時間TOPつぶやき
2016年01月29日

クリエイター or パクリエイター ?

人は模倣から始める。

素敵な言葉を紡ぎたいと思う人は、きっと心に響く言葉を読んで、自分でもそんな文章を作りたいと願ったのだろうし、素敵な写真を撮りたいと思う人は、きっと写真を見て心を打たれたことがある人なのだろう。

歌いたい、楽器を弾きたい、踊りたい、絵を描きたい、アクセサリーを作りたいetc、いろいろな表現の方法はあるけれど、何かを作りたいと思う人は、過去に誰かが作ったものを受け取り、憧れ、自分もその表現方法を使って、自分を表現してみたいと感じたことがあるんだと思う。きっと。



何かを表現する人が多くの人に囲まれていたり、賞賛されていたりお金を得ている部分だけを見て、羨ましくて、ものを作りはじめる人もいる。

表現したい自分が無いから、周囲の人からの評価が得られないと、簡単に挫折する。憧れの作品のコピーに安易に逃げてしまう。

不幸にも、模倣品の方が自分で考え作った稚拙な作品より評価が高かったりする。



表現とは自分と向き合い、それを形にすること。

自分自身の一部を形にして表に出した作品が、無反応であったり、批判されたりすれば、傷つくだろう。

それよりも何よりも、自分の表現の薄っぺらさに落ち込むのだ。ありがちな、どこでも見かけるような、つまらない作品だと。

自分の作品が過去に感銘を受けた作品を模倣した、ただの劣化版なのではないかという恐れをどこかで抱え続ける。

超えられないという迷い、超えたいという願い、自分が納得いく表現ができたと思う瞬間、その表現が誰かに受け入れられたときの嬉しさ、そういう揺らぎがその人の作品を魅力的にするのだと私は思っている。



パクリエイターがダサいと思うのは、その恐れと向き合っていないから。

誰かの言葉を借りて語り賞賛されれば、自分が褒められ、受け入れられたと勘違いすることができる。評価が悪かったり否定されれば、自分の言葉ではないから、と、心の中で言い訳できる。

表現と向き合っていないから、怖くない。それが単なる模倣であるのか、その先にある自分自身の表現なのか、悩む必要が無い。

揺れが無いから、魅力が無い。



表現と向き合いながら何かを作ることは、喜びも大きいけれど苦しいことであり、誰にでもできることではない。

だからこそ、私達凡人は、作家、クリエイターと呼ばれる人達に憧れるのだ。

パクリエイターが模倣を越えようと努力せずに自分だけで満足している分にはいいのだけれど、その人がクリエイターを自称しているのを見ると、やっぱりざわざわしてしまう。

模倣やコピーに甘んじて諦めて、自分と向き合わない人間が、「つくる人」を名乗るなよ、と思う。



でも、自分で表現してみるのって、楽しい。まだまだだな、とか、なかなかいいじゃん、とか、ぶつぶつ悩んだり、苦笑いしたり、喜んだりしながら、何かを作ってみるのってとても面白い。

最初は真似でいいんだと思う。でも薄っぺらいコピーを越えた先にある自分のオリジナルを探す努力をやめてしまったらつまらない、って思う。

だから私は今日も表現する。「つくる人」でありたいと願いながら。

自分が自分でいられるように。

posted by かこ at 14:19 | Comment(0) | つぶやき
2015年12月03日

傷が治りゆく痛み

親知らずを抜いた。麻酔をして、大きい歯だったけれど、素直にまっすぐ抜けて出血はあまりなかった。

化膿止めと痛み止めが処方された。


 今は出血が止まっているけど、どうなってるのかなって舌で触ったりすると、傷が開くから気をつけてね。

 二時間経ったら、麻酔が切れるから、その前に一度、痛み止めを飲んでおくといいよ。引っ掻いたり、引っ張ったりして、傷ついたところが痛むはずだから。

 それから、二・三日経った頃に、また痛くなるから痛み止めを飲むといいよ。傷が治ろうとするときにどうしても痛みがでるんだ。これは仕方ないことだからね。


・・・傷が治ろうとするときには痛くなる・・・心の傷も一緒だ、って思った。

傷ついてるときには、驚きのあまり呆然としてしまったり、悲しみより先に怒りがわいてきて、痛みが麻痺して気づくのが遅れたりする。

怒りは心の防御反応だ。

しばらくして少し落ち着くと、傷が思いのほか深かったり大きかったりするのに気がつく。無防備に触れると、傷口がぱっくり割れ開いて、どろりと感情が流れ出てきたりする。

それでも日が経つと、だんだんと傷口が塞がっていく。ときどき痛みを吐き出しながら。


そう、傷が治りゆくときに心が痛みを感じるのは当然のこと。回復していくために必要な痛みなのだ。

いつしか傷が塞がり、そこに傷などなかったように思えるようになる。それでも消えない傷跡が薄く残ったり、なぜだか時々ふいに痛み出したりする。


そんなことを考える。歯肉で埋まりつつある穴の柔らかな感触をそっと舌で確かめながら。

posted by かこ at 21:12 | Comment(2) | つぶやき
2015年08月29日

本を読むということ

私は小さい頃、本ばかり読んでいて、頭でっかちな子供だったように思う。知識だけ貪るように吸収して、世界のいろいろなことを分かっていると過信していた。

少し大きくなって、実際に自分の身を以て経験したとき、ああ、あの本に書いてあった文章は、こう表現されていた感情は、こういうことだったのか、と実感した。たとえば、身を焦がすような、という気持ちであったり。私は、本当は、何も知らなかったのだと。

文章を読んで想像する、人の話を聞いて思いを巡らせる、というのはけして無駄なことではなくて、でも、似たような状況に出会った時に、自分が実際にどう行動して、どう感じるかということには、小さくはない「ずれ」があるのだと気がついた時、私は少し変わったのだと思う。

その時、私は、本の知識だけで、手や身体を動かさずに判った気になることの危うさに気づいた。実体験を伴わない知識は、経験して身につけたこととは、まるで違う。だから興味があることは想像だけで済ませた気にならず、実際に経験できることは体験してみよう、と思った。

***

図鑑で見て知っていると思った生物も、実物を見て触るとまた全然違う印象を持ったりする。前もって得ていた知識と、実体験のずれ、それもまた面白かったりする。思っていたのと違う、うまくいかないという歯痒さを味わうのも面白さだったりする。

・・・の方法、とか、作り方、という本を読みながら何かを作っても、途中でどうしていいか分からなくなって行間にある何かを考えたり、人に聞いたり、違う書物を調べたりすることもあり、最後に本にあるものとは、まったく違うものができあがったりする場合も少なくない。

素敵な踊りを見て、真似て身体を動かしてみたら、フリもままならないし、ポーズもサマにならない、鏡の中の自分を見て、あまりの違いに愕然としたりする。

やったことがないのにすんなり出来る気がしていた自分に苦笑したり、思っていた以上のものができて嬉しくなったり。自分で実際にやってみるっていうのは、そういうことなんだと思った。

人の体験談を聞くことは無駄ではないけれど、同じ空間で同じ出来事を経験したとしても、それぞれの人に生じる感情は違うし、行動も違ってくる。自分でやってみて、受け取ったことは、その人特有の経験。その人独自のもの。

***

子供の頃、私ではない人から、どう世界は見えていて、どのように感じているのかを疑似体験できる眼鏡がほしいって思っていた。

私にとって、その眼鏡は、人の話を聞いたり、本を読むってことなのかもしれないな、って、思っていたりする。

posted by かこ at 17:13 | Comment(0) | つぶやき

本の虫

小・中・高校と、私は時間があれば、いつでも学校の図書室に行って、ずーっと本を読んでいた。

本を開く時は、誰にも話しかけられず、誰にも気を使わず、一人になれる時間だった。今いる自分の場所ではない、本の中の異世界に没頭できる時間。

いつもいる図書の先生。顔を知っているいつもの人ではあるけれど、言葉を交わすのは、本を借りたり、返す時だけ。その距離感が居心地よかった。

本を読むのが好き、という中には、誰とも関わらずにいても許される空気感に救われる、という要素も大きかったと思う。

友達に気を使って興味の無い話をして噛み合わない自分に落ち込んだり、中庭に出て鬼ごっこしたりドッジボールをして、上手くついていけないという嫌な気持ちにモヤモヤしなくても許される。読みたい本があるから、という理由で暗黙のうちに断る口実ができるのだ。

あなたは無理をしないで、他人にあわせずに、そのままでいていいんだよ、と思わせてくれる場所が、私にとっては本であり、図書室だった。

大人になった私が居心地よく過ごせるのは、自分の存在を知りつつも、踏み込んでこない店員さんのいる喫茶店。よく行くお店で常連扱いされて、親しく話しかけられるのが好きな人もいるのだろうけれど、声をかけられるようになってしまったから、その喫茶店にはもう行けない、と感じる人も少なくはない気がする。

図書館という存在が、対人関係が苦手な子供の居場所、逃げ場として、このまま守られますように。親切な、おせっかいな大人に話しかけられて、その大人の望むような、人と関わる社交性のある子供になることを求められるというような、救いの無い問題解決をしなければいけない場所に変化してしまいませんように。

学校の図書室と、街にある図書館では、少し話が違うのかもしれないけれど。

本のある空間が、一人でいても、そっと許される、そんな場所のままでありますように。

***



posted by かこ at 12:27 | Comment(0) | つぶやき
2015年06月16日

「白夜の家族」を終えて〜心に残るものを作っていきたい

すごく久しぶりに舞台に立ちました。芝居という形では、10年以上ぶりです。

昨年末、かつやで涙ぐみながら、カツ丼を食べながら、文ちゃんのことを思い出していました。

かつやの踊り子

そしたら、そのすぐ後に、昔の演劇というかダンスというか舞台仲間から、文ちゃんが残してくれた三人芝居「白夜の家族」の再演をやろう、という連絡が届いたんです。嬉しくてびっくりして、でも演ってみたい!ってすぐに返事をしました。

長い間、舞台表現をお休みしていた私と違って、ずーっと舞台に立って踊り続けてきたレイちゃん、ミカちゃんの二人。一緒に舞台に立つことなんてできるのかな、と、ものすごく不安に思いながら、年明け、最初の打ち合わせに向かいました。

台本をもらって、目を通して、これ、本当に私出てたっけ?なんて言ってしまいました。10年以上前とはいえ、すごく記憶が遠い。多分、このとき、自分で作・演出した作品を作っていて、別の作品にも出演していて、印象に薄かったんですよね。でも、この内容なら、今の私でも、稽古すれば演れる、そう思いました。ダンスシーンや激しい動きが無かったので・・・。

それから月一回位の稽古に集まり、ここのシーンの動きはどうだっけ?なんて言いながら、進めて行きました。いろんなことを思い出して、でも所々、三人ですっぽりと記憶が抜け落ちていてさっぱり分からないところは、新しく作りました。

なにせ、この作品の脚本を書いて、演出していた文ちゃんはもういない。三人で文ちゃ〜ん、これでいいのかなー?なんて言いながら、動画を撮ったり、お互いに動きを見合ったりして、稽古を重ねていきました。

「白夜の家族」は、北へ向かう船を待つ母と子と生まれてこなかったもう一人の子の物語。今、母になったばかりのレイちゃん、既に子供から遠いところに来てしまったミカちゃん、ずっと舞台から離れていた私。以前とは違う作品と自分たちの位置に、戸惑ったり面白がったり。

レイちゃんは生後半年の娘さんと一緒に稽古に来ていたのですが、その娘さんが一歳近くになる頃、本番を迎えました。

金沢文庫、アサバアートスクエアにて行われる齋藤麻生さん主催のmaumaOde(マウマオデ)フェスタ。私は子供たちの運動会と重なりましたが、出演時間を夕方にしていただき、両日、無事に参加することができました。

小さな空間で、お客さんに触れてしまうほどの近い舞台。

一日目は、とても三人の気持ちがしっくりと噛み合った納得のいく本番となりました。二日目は、私としては、最後まで役に気持ちまで入り込めない、外側から自分を客観視したような芝居になってしまいました。レイちゃんもそうだったと。

でも、二日目の方が、三人の立ち位置がはっきりして、よかったって言ってくれる人もいたり。二日間通して、笑ったり、涙ぐんだりしながら観てくれる人達がいて、もっとずーっとこの先も観ていたかったって言ってくれる人達がいて、すごくよかったよーっていう言葉と笑顔を沢山いただいて、ああ「白夜の家族」をここで再演できて、本当によかったな、って思いました。

この作品を前回観ていてくれた方達もいて、急にその時に戻ったみたいだった、って言ってくれたり。

観てくれた方達の心に少しでも残るものがあったのなら、とても嬉しいと思う。

やっぱりね。本番はいいですね。自分たちの関係・空間との関係・観客との関係。自分と他者の間で生まれる空気。私は語れるほど舞台に立っていないけれど、特別の空間が生まれる瞬間をたまらなく愛しく思う。

私は、10年前に、舞台表現の世界で生きていくことを諦めたんですよね。舞台はとても好きだけれど、そこに注ぎ込むエネルギーと予算と時間を割くことが、私にはできないと。

稽古だけじゃなくて、仲間といろんな話もしました。子供を産む前と後で変わったこと。表現し続けるということ。どうやって生きていくかっていう話。

私は、舞台表現という道は選ばなかったけれど。そしてこれから舞台に上がる機会はほぼないと思うけれど、何かしらの手段で表現をしていける人になりたいと願う。

きっとその表現方法は、私にとっては、今は書くことで、これからはどうなっていくかは分からないけれど。

くすっと笑ったり、思わず涙ぐんじゃったりするような作品を作っていけたらいいなって思う。すごく思う。必要としてくれる誰かの心に残る何かを作りたいって思う。

もっと他にも書きたいことがいっぱいあった気がするんだけど。まとまらないから。とりあえずこのまま出してみます。

このイベントを作りあげて下さった方々、見に来て下さった方々、声をかけてくれた仲間たち、関わってくれた全ての方々に深く大きな感謝を込めて。

それから、文ちゃん、ありがとね。

また、会えたらいいな。

posted by かこ at 00:15 | Comment(0) | つぶやき